プロフィール


幼少期~15歳【少年時代】

下関で生まれ、6歳まで東京、小・中を長崎で過ごしました。
東京から長崎に引っ越し、「方言」の違いに衝撃を受けました。
現在、国語講師として仕事をする中で、
特に古文での「方言」や「語の音便化」の説明の一部は、
この時の体験に基づいています。
例えば小さい男の子が自分を呼ぶ際に、
東京では「僕」または「俺」。
長崎では「おい」。
異世界に辿り着いたように感じました。
また、母方の実家が下関だったこともあり、
瀬戸内弁で文末に「ちゃ」をつけたり、
「そうかね」を「ほーかね」と発音したりする点にも、
帰省の度に驚いていました。

4歳からピアノをはじめ、
バイエルなどの入門レベルで1度は挫折したものの、
思春期に再び音楽熱に目覚め、
14歳から再びドヴュッシーやリストなど、難度の高い曲も弾けるようになりました。
同時に、6歳から硬式テニスをはじめ、
最高記録として、長崎県大会優勝、九州大会準優勝まで行きました。
テニスとピアノは一見、何の接点もなさそうですが、
何か新しいことをはじめ、
自分が成長していく時のプロセスをここで体感できたことで、
その後、受験勉強をやるときにも
「どうやったら短期間で成長し、結果を出すことができるのか」をイメージしやすくなりました。



15
19歳【高校・フリーター時代】

高校1年から福岡に引っ越しました。
両親の不和が原因でした。
ここでも、長崎では「したっさ」と言ってたのを、
「したったい」などと発音している博多弁文化に衝撃を受けました。

通った高校は福岡中央高校。福岡市薬院にある高校でした。
この高校を選んだ理由は、
【都会に近い】から。
田舎にいて、都会での情報と体験に飢えていたので、
真面目に学校には通わず、課外授業等は全てサボり(汗)、
バイトに明け暮れ、CDショップと本屋に通うのが日課でした。
周囲がなんとなく大学受験を当然と考える中で、
自分では大学に行く意義を見出すことができませんでした。
こうした宙ぶらりんの中で、
高校卒業後ひとまずフリーター生活を始めました。

相変わらず、情報や体験への飢えがあったのですが、
加えてこの頃から脱出・逃走願望が強くなってきました。
家族から、福岡から、脱出し、逃走を図りたい。
フリーター生活では、お金を稼げるという自由を手にできた半面で、情報や体験への飢えが満たされることはありませんでした。

福岡から脱出して、情報・体験を大量に浴びるために、
【都心にある】×【出席をとらない】2条件で大学を探し、
志望先を早稲田大学政治経済学部に決定しました。
私はどうやら、【都心にある】という条件は外せないようです。

同時に代々木ゼミナール福岡校で浪人生活を始めました。
情報・体験欲と、脱出願望に満ちていた僕にとって、
代ゼミの授業はカウンターパンチ級の衝撃でした。
派手な講師、饒舌な講師、寡黙な講師、知的な講師など、
一通り考え得る限りの授業や講師のあり方を見せてもらいましたし、特に英語の講師からは、自分の思考のあり方自体を変えられました。

当時、国語が最も苦手科目で、
英語の講師から教わった読解法や考え方をそのまま国語に応用してみたところ
国語の成績も上がりはじめました。
この時に自分を実験台にして試した読解法や解答法が、
その後国語講師として仕事をする上での原点になっています。

浪人を始める際、母校に報告に行ったのですが、
職員室で、立ったままの状態で、
志望先を変えるように促されたのを覚えています。
合格後、同じように母校に報告に行ったところ、
うって変わって校長室に通され、
東京での同窓会に加入するように誘われました。
先生を長年経験してきた方であっても、
人の変化・成長を正確に見通すことはできず、
あくまで事後的に結果を判断できるに過ぎないのだと痛感した瞬間でした。
この時の体験から、若い人から進路を相談された時、
安易にレッテルを貼り、可能性を潰すことがないよう細心の注意を払うようになりました。



20
26
歳【大学・大学院時代】

晴れて早稲田大学政治経済学部に合格。
無事、福岡と家族から脱出し、逃亡を果たしました。
何よりも愉しかったのが、
情報・体験欲を満たしてくれる授業や東京での経験。
自分の欲や好奇心に忠実に生きていたので、
つまらない授業はサボって、
片っぱしから美術館、劇場、映画、イベントにお金を費やしました。面白いと聞けば、他の大学の授業も随分受けに行きました。
何かをやりたい、という目的意識はなく、
ひたすら見まくり、考えまくり、体験しまくる、
ということ無用の用が愉しかったのです。
しかも幸せだったのが、
自分の知的好奇心と同水準以上の仲間が周りにたくさんいたこと。いけてるクラブや音楽、ギャラリーなどを仲間から教わり、体験の幅が広がりました。

バイトも、イタリアン・レストランのホール、写真屋のDPEオペレーター、印鑑会社の梱包、パン工場のライン生産、印刷会社のライン生産、引っ越し、デパートへの巨大什器搬入、コンサート・スタッフ、建築設計事務所の模型作り、精神科病院の夜勤、国境なき医師団の雑務、電話で質疑応答をする塾講師、など、
全く脈絡も繋がりもないバイトを片っ端からやりました。
お金を貰いながら社会科見学をしているような気持ちでした。

このうち、精神科病院の夜勤では、名看護師さんと患者さんのやりとりを見るうちに、講師やコンサルティングの仕事にも繋がる人と人との絶妙な距離の取り方を学びましたし、電話で質疑応答をする講師では、今でいう遠隔型の授業を体験しました。電話を通して、日本全国に点在する生徒さんと授業をできることが新鮮でした。

同時に、国境なき医師団での活動を間近に見ることで、自分も具体的に社会貢献をできないかと考えるようになりました。

そこから、夜間の建築学校に通うようになり、海外で社会貢献をするきっかけを探すようになりました。
【都心にある】×【研究で海外に行きまくれる】2条件で、東京大学大学院に進学しました。

大学院時代は、編集・インタビュアーの仕事をして、取材や企画など、会いたいと思っていた人に会いに行きまくりました。
海外に行くときにも必ず編集社に企画を持ち込み、
勝手にプロジェクトを立ち上げてから海外に行っていました。
当時行った国は、スペイン、イタリア、フランス、スイス、イギリス、タイ、台湾、中国、オーストラリア、アメリカ、ベネズエラ、ブラジル。
国連や国際NGOなどへの就職も考えたのですが、
いくつか挑戦した挙句断念。
社会貢献と生活していくことの折り合いをつけることができないまま、大学院の卒業も間近になり、
都市デザインシステムに入社することになりました。ここまで、やみくもな好奇心のみに基づいて生きておりました。



26
28歳【サラリーマン時代】

2006年株式会社都市デザインシステム入社し、
Tone&Matter都市デザイン研究所に配属。
新規事業立ち上げ(上海でのホテル事業)にアシスタントとして参加しました。ずっと親からは「サラリーマンは向いていないから辞めろ」と言われ続けたのですが、実際に経験してみて、本当に向いていないことを痛感しました(笑)。会社の居心地が悪く、倒産の危機にあったことも重なり、
入社後、1年2ケ月で同社退社しました。



28
32歳 【駆け出しの予備校講師時代】

講師としての活動をスタートしたのは、当初は偶然でした。

①当初は、医学や法学、税務など、なんらかの資格をとろうか、と思っていた。そのため、学びに近い場所にいた方がいいだろう

②サラリーマン時代にたまたま手伝って教えた友人の弟や妹が、全員横浜国立大・早稲田・慶應大学等の難関大学に受かったことを思い出し、これは仕事になるかもしれない

③予備校での浪人時代+20~26歳までの長い学生生活の中で、たくさんの名講師や名授業を国内外で見て、生徒としての目も肥えているのでは

④形にすることができなかった多くの体験が、従来の教師とは違う視点に活かせるのではないか

と考え、講師の仕事をスタートさせました。
体験的に会社員生活には戻れないと観念していたので、
絶対にここで形にしてやろうと必死でした。

まずはじめに出講した予備校は、
久留米ゼミナール、四谷学院、全教研です。
教育学部を出た訳でも、
教え方について現場で経験があったわけでもなかったので、
自分の過去の生徒体験と、浪人時代のテキストや講師の姿を思い出しながら、授業をやり始めました。

いきなり1年目に、この仕事の怖さを思い知りました。
今でも忘れられない体験として、
ある塾の春期講習で、担当していた講師が急遽欠席し、
代打として突然授業を行うことになりました。
そこでなんと、初日25人→2日目7人と激減させてしまいました。
ショックでしたが、
それよりもなぜ授業を受けなくなったのかを知りたいという気持ちの方が勝ってしまい、
僕の授業をさぼって自習をする受講者全員に、
ノートを持ってヒアリングに行きました。
自分の授業のどこがダメだったかを質問すると、
意外にもきちんと答えてくれるんですよね。
この時に頂いたアドバイスや他の講師との違い、
良い授業のあり方などが、
その後授業を行っていく上で大きな役に立っています。
それ以来、実施する全ての授業でデータをとるようになりました。
例えば、授業アンケートや、生徒さんの毎回の点数、どこがわからなかったかの詳細コメント。
これらの生徒さんのデータが、僕の授業を作ってくれています。

2年目も、生徒さんから色々なことを教わりました。
そこで気づいたのが、
生徒さんが興奮して話してくれるカリスマ講師がいること。
例えば、英語の関正生先生や、現代文の中野芳樹先生、地理の瀬川聡先生など。
これらの先生の一体どこが凄いのか?と思い、
自らも生徒として授業を受けに行きました。
それぞれ、科目も見た目も教え方も違いましたが、
全員に共通していると感じたのが、
生徒さんが躓くポイントを生徒さんの言葉で熟知していること。
かつ躓きに対する一貫性を持った代案を技術的に方法化しているということ。
こうしたロールモデルに出会ってから、
講師としてもっと変化・成長したいと思うようになりました。



33~36歳【代ゼミ講師】

かつての母校である代々木ゼミナールで働くようになりました。
気づいたら、講師の仕事にのめりこんでいました。
サラリーマンは1年ちょっとしか続きませんでしたが、
予備校講師は8年も続いています。

代ゼミでは、かつて自分が習った先生方でまだ現場でご健在の方も多く、
かつて生徒として、
その後講師として2つの立場で関わることができたのは幸せでした。代ゼミ2年目の夏に、全国の校舎を大量閉鎖、職員や講師を大量解雇する現場に立ち会いました。
色々な人の人生が変わっていく瞬間を間近に見ました。
それと同時に、かつて自分が予備校で生徒として受けた、大人数の生徒×1人のカリスマというモデルが、
今の予備校の現場では機能しにくくなっていることも目の当たりにしました。

もちろん、カリスマ性のある先生はいらっしゃるのですが、
生徒さんや保護者の方は見せかけの派手さではなく、
堅実に、確実に成績を上げる授業を支持していることも肌で感じました。
少子化に加えて、大学入試に対する価値観も多様化する中で、
堅実に、確実に成績が上がって合格することが求められているように感じます。



36
歳〜【Street & Book Smart数と言葉の教室始動】

以上のような経験と流れを経て、
「人の変化・成長に伴走する」という私自身のミッションを軸に、
加えて、父親として6歳の娘と4歳の息子を教育する必要性から、
Street & Book Smartとして、メルマガの配信と子ども向け「数と言葉」の教室運営を開始しました。
みなさまに、メルマガで、教室で、お会いできるのを愉しみにしております!